原作:宮沢賢治 脚本・演出:園山土筆
セロ弾きのゴーシュ
「ゴーシュ」という語は、フランス語で、へたな、へまな、ぶきっちょな、といった意味があります。このドラマは、そんな名前のチェロ弾きが、「叱られる」ところから始まり、「ほめられる」ところで終わります。けれども、決して単純な「成功物語」ではなく、奥深いテーマが内在されています。

指揮者である楽長は、ゴーシュの欠点を次々とあげていきます。そんなゴーシュのもとへ、毎晩動物たちがやってきて、大きなおみやげを残していくのでした。

三毛ねこは、ゴーシュを怒らせてしまいますが、愚直で優しいだけのゴーシュには「怒り」とか「迫力」といったものが必要でした。そして、ゴーシュは演奏者として、その「怒り」を楽しむ余裕さえもてたのです。

かっこうは、セロ弾きに「あなたのドレミファはちがう」と、するどく指摘します。音楽をきわめるには、「基本的な繰り返し」と「はげしい努力」が必要で、それは鳥の中でも厳しい宿命を背おわされたかっこうだからこそ、言えた言葉でしょう。

子だぬきは、肩ひじはっていたゴーシュを素直な気持ちにさせ、自分の音楽の弱さに気づかせます。芸術には、「ユーモア」や「即興性」が要求されることを知るのです。

野ねずみは、食べられもしない青いくりの実を、おみやげにもってきただけでなく、すぐれた音楽は、「苦痛をとりのぞき、人を生き生きとさせる」のだということを置き土産にして帰っていきます。

このように動物たちは、ゴーシュに貴重な経験をさせるのですが、ゴーシュ自身は、自分が成長したとは、夢にも思っていませんでした。それほどこのセロ弾きはデクノボウであり、実はこの姿こそ、作者・宮沢賢治が死ぬまで追い求めていた理想の姿だったのです。

楽長は、ゴーシュが技術をマスターしただけでなく、深い感動を呼ぶ演奏をしたことに驚き、ゴーシュを讃えます。けれども、ゴーシュはその時、あのまっくろな空にむかって、傷ついて血を流しながら飛んでいったかっこうにあやまるのでした。

貧しく孤独なゴーシュが、こわれた水車小屋で懸命に生きていく姿は、きっと皆さんの心の中に生き続けるでしょう。

[ブラボー!ファーブル先生二十二夜待ち彦市ばなし]